オシフィエンチム

駅で見た月

9時過ぎに宿を出て、歩いて駅へ。今日はオシフィエンチムへ。ドイツ語で、アウシュヴィッツ。今までみたいな気分で、行く所じゃない。10時過ぎの博物館行きのバス。乗客は20人弱。のどかな田舎町を進んでいく。英語圏の大学生らしい5、6人のグループが、うるさい。11時半過ぎ、到着。売店で花を買って、中へ。平日だったが、ツアーや学生などの団体が多く、局所的に混んでいる。最初に銃殺用の「死の壁」へ。たくさんの花と、キャンドル。買った花を供えて、手を合わせる。この壁に何人の血が染みついているのかと思うと、言葉も、何かを考える力も失ってしまう。

敷地内には28の囚人棟が残されている。中にはいると、入口から一番奥までまっすぐにのびる廊下の壁には、ここで殺された人たちの写真が並ぶ。全て、ここに収容された時に撮られた写真。次の棟も、その次の棟も。きつい。

ある棟には6〜7mもの幅で山のように積まれた髪の毛が展示されている。何も知らずに来たら、穏やかな感じさえする静かなこの場所で、持ち物も、命も、髪の毛や金歯までも奪われて焼かれていった人たちがここだけで150万人。吐き気がしてくる。

その後、シャトルバスで第二アウシュヴィッツと呼ばれる、ブジェジンカ(ドイツ語でビルケナウ)へ。ばかみたいな広さ(1.4km平米)。数え切れないほどののバラックバラックの残骸、敷地を囲む有刺鉄線(当時は電気が流されていたんだろう、白い碍子もそのまま)。

そして地面には、きっとたくさんの人たちの血と焼かれたあとの灰が、しみこんでいる。破壊されたまま瓦礫の状態で残るガス室や焼却炉、そのすぐそばには焼かれた人間の灰が捨てられた池。

「死の門」とよばれる正門から伸びる、収容される人たちを乗せた列車の引き込み線。線路はとても長く、ホームはとても広い。長い列車一杯に押し込められてきた人たちが、この広いホームで「選別」された。すぐ殺される人と、役に立たなくなってから殺される人。この広さが、怖い。

今はバラック周り以外は草や花が地面を覆っている、静かな場所。奥には国際慰霊碑。20ヶ国の言葉で書かれた碑が並ぶ。こんなにたくさんの国の、たくさんの人が犠牲になった。そこにもやっぱりたくさんの花。

後日クに会ったとき、ここの話を少しだけした。彼は「crazy」とだけ言った。
正直言って、特別関心があった訳じゃない。アウシュヴィッツがドイツ語読みであることも、ポーランドにあることすら知らなかった。その私が見てきた物や感じた空気を言葉で伝える力はないけど、あの恐怖は忘れない。たくさんの人に行って、実際に見てもらいたい。
予想はしていたけど、どっと疲れた。4時15分のバスでクラクフに帰る。が、バスが来ない。同じバスを待っていた人たちが、だんだんその場に座り込み始めた。売店でアイスクリームを買って食べてる人も。さっきまでのショックと、そののんびりさがあまりにアンバランスで、妙なもので少し気が楽になってくる。結局、別ルートから来る4時55分のバスが先に来て、それに乗って帰る。途中、急にスピードが遅くなったと思ったら、すぐ前をおっちゃんが乗ったトラクターがドコドコ走っている。おっちゃん、後のバスを気にしてはいるものの、脇へ避けようとする気配は全くなし。片側一車線だぞ、どうすんだと思っていたら、対向車のタイミングを見て抜きにかかった。バスで追い越しって、初めてかも。
クラクフに戻り、夕飯をすませてタクシー乗り場へ。今日は割と若いお兄ちゃんの車。昨日練習したとおり、「ホテル・ぶろ(懸命に巻き舌で)ーな」と言ったが、またきょとんとされてしまう。こっちの発音も悪かったんだろうが、お兄ちゃんが持っているホテルリストにも載ってない。他の運転手さんに聞いてみてくれたけど、やっぱりわからないみたい。降ろされるかと思ったら、「とりあえず行ってみようか」と発車してくれた。道はわかっていたので、説明しながらなんとか到着。着いたときのお兄ちゃんの満面の笑み、忘れられない。多めにチップを渡して、別れた。ほんと、ありがと。